2016年7月8日金曜日

合田昌文著 中世合田氏ノ跡(改訂版)


涼やかな風が吹き、雨が落ちている。久方ぶりの雨に、庭の草木も喜んでいることだろう。
さくじつは、しちせき(七夕)、昨夜に続き、二条良基の「蔵玉和歌集(草木異名事)」を紐解いていた。これほどまで、草花に想いを馳せた歌集は、初めてであった。
雨の合い間に庭に出、郵便受けを開いた。書籍小包があった。何と、先学、合田昌文氏からのものであった。慌てて書斎に戻り、開封した。「中世合田氏ノ跡」の改訂版を上梓され、届けてくださったのであった。早速、講読を始めた。きょうは、徹夜を覚悟した。嬉しいサプライズ、本書の表紙を写真に撮った。
合田昌文氏に、心からの感謝を捧げつつ、御高著を、本ブログの冒頭に掲げたく思う。
合掌。

2015年12月23日水曜日

太平記 菊地合戦事(2-06)

大日本史料第6編之22に収録された「太平記 菊地合戦事」の項に、合田氏が登場する。下記画像(引用文献)中、651頁11行に合田筑前守が、654頁15行に合田筑前入道の名が記されている。
合掌。













亦、大日本史料第7編之31を紐解いていると、嘗て、筑後国の河北庄に、合田氏が所領を持っていたことが分かる。此処は、現在の地名で、福岡県三井郡北野町辺りのようだ。かの有名な大刀洗の傍である。
この文書に先行する時代、筑後は名越(北條)朝時・時章が守護に任じられており、名越氏の名代で働いていた合田氏の存在は、加賀の白山文書(白山宮庄厳講中記録)の記述からも知られている。その合田六郎系合田氏の知行所があったのだろうか。それとも、弘安の役(元寇)で活躍した合田五郎系合田氏の恩賞地が設定されていたのだろうか。この合田一族(合田越前守一族)は、伊予国にも料所があったようである。歴史は興味が尽きない。
合掌。



2015年12月21日月曜日

後醍醐天皇綸旨(1-08)

南禅寺文書 後醍醐天皇綸旨

尾張国杜庄 合田左衛門尉跡 可令知行給之旨 天気所候也 仍執達如件
       建武二年七月六日                                                         左中将(在判)             
                夢窓上人禅室



大日本史料 第6編之2

2015年1月25日日曜日

北條貞時十三年忌供養記(1-06)

圓覺寺文書、「北條貞時十三年忌供養記」を紐解くと、合田左衛門三郎入道、合田五郎左衛門尉遠貞、合田四郎、合田左衛門尉の四人の名前が見受けられる。


北條貞時十三年忌供養記 合田左衛門三郎入道

要木採用所々、 伊豆國土肥山 地頭 土肥二郎左衛門尉、 相模國奥三保屋形山 給主 合田左衛門三郎入道、 鳥屋山 給主 本間五郎左衛門尉、 各被成遣奉書、

付記
「新編相模国風土記稿 卷之百十九 村里部 津久井郡 卷之四」に、奥三保の記述があるが、屋形山は確認出来なかった。亦、「天文十五年神分諸次第(八菅神社所蔵・愛川町古文書目録収録)」に、『三番屋形山天童地蔵』の記載がある。八菅神社に関しては、愛甲郡制誌の中津村の項を参照されたい。




北條貞時十三年忌供養記 合田五郎左衛門尉遠貞

合田五郎左衛門尉遠貞
粟飯原五郎左衛門尉常忠
尾藤弾正左衛門尉資廣
本間木工左衛門尉助茂
五大院右衛門大郎高繁



北條貞時十三年忌供養記 合田四郎

近衛中納言 馬一疋鹿毛置按 銀剣一   千葉介進 御使 合田四郎



北條貞時十三年忌供養記 合田左衛門尉

銀剣一  馬一疋置按糟毛   合田左衛門尉



追記
「鎌倉市史史料編第二」所収「圓覺寺文書」より、引用させていただいた。
関係諸氏に、記して、お礼を申し上げる。
合掌。

2015年1月24日土曜日

「新抄(外記日記)」、文永三年七月九日の項に、合田入道の名が見受けられる。(1-03)

「新抄(外記日記)」、文永三年七月九日(1266年7月9日)の項に、合田入道の名が見受けられる。
合掌。



文永三年七月

八日、□戌 関東将軍御休息所、日來□□□殿僧正良基露顕之間、被奉追出於
下第、可有御上洛云々、僧正可被遠流云々、圓實僧正猶南都嗷々間、奈良
庄播州可被籠居之由自関東被申云々、
九日、巳亥 関東飛脚到来、糟谷三郎合田入道 将軍御謀反事云々、仍将軍奉出越後入道
時盛宅奉守護、急可有御上洛云々、

2012年2月6日月曜日

白山宮荘厳講中旧録(1-01)

嘉禄三年四月廿七日 大桑讃岐次郎光行 山神主職被補■ 非重代依米永氏澄之譲故歟 
同年四月廿九日 越後守殿 平朝臣朝時 当国御家人勤之 百騎笠懸兩社大刀令進勤仕■ 奉行御使者合田六郎 是等事偏依有御夢想之告令勤仕者也

大日本史料 第五編之四

付記
合田六郎の名が記された「白山宮荘厳講中旧録」については、今日まで、刊本の入手が適わなかった。本日、偶然にも、東京大学史料編纂所のデータベース検索画面にて、「白山宮荘厳講中旧録〔内題:白山宮庄厳講中記録(承元3年-弘治2年)〕」の画像データを確認することが出来た。有り難いことである。
合掌。

注記
■:コンピューターに当該文字無し。後日、外字を製作し、訂正する所存。
合掌。

2012年2月5日日曜日

陸奥國宣(1-07)

      花押(北畠顕家)

工藤三郎景資申、糠部郡三戸内會田四郎三郎(合田四郎三郎)跡事、早任御下文之旨、可打渡
景資、使節遅引者、可有其咎之由、國宣所候也、仍執達如件、
    
    建武元年九月六日
                                                   大蔵権少輔清高
   南部又次郎殿

北畠顕家袖判御教書(1-07)

      花押(北畠顕家)

   自是態欲被仰之處、條々注進之趣、具披露華、


一、當郡内凶徒迯散輩有其数歟・・・・・(以下、略)、


一、工藤三郎兵衛尉間事、・・・・・(以下、略)、


一、闕所地事、・・・・・(以下、略)、


一、郡給主等中参御方輩、注進同披露■、一戸新給人横溝孫次郎〔浅野太郎跡〕・三戸新給人工藤三郎〔会田四郎三郎(合田四郎三郎)跡〕・八戸給主工藤孫四郎・同孫次郎等名字不見、何様振舞候乎、可披注進候、注進外三戸新給人岩繹大炊六郎人道〔大瀬二郎跡〕、津輕凶徒与同候也、可被得其意候、


一、津輕事、・・・・・(以下、略)、


一、外濱明師状入見参■、・・・・・(以下、略)、


一、安藤五郎二郎事・・・・・(以下、略)、


條々猶被仰落事候欤・・・・・(以下、略)、


久慈郡并東門事・・・・・(以下、略)、
                                       
                                      六月十二日    大蔵権少輔清高

注記
■:コンピューターに当該文字無し。後日、外字を製作し、訂正する所存。
合掌。

2011年11月29日火曜日

崇演北條貞時判圓覺寺大斎料結番定文(1-05)

(貞時花押)
圓覺寺毎月四日大斎結番事

一番
    長崎左衛門尉
    長崎木工左衛門尉
    周防前司
    嶋田民部大夫入道
    安東四郎右衛門入道
    足立源左衛門入道
    諏方六郎左衛門尉
    合田四郎左衛門尉

二番
    工藤次郎右衛門尉
    粟飯原左衛門尉
    葛山左衛門尉
    大瀬三郎左衛門尉
    本間太郎左衛門尉
    合田五郎左衛門尉
    吉岡四郎左衛門尉
    高柳三郎兵衛尉

三番
    大蔵五郎入道
    長崎宮内左衛門尉
    越中局
    大森右衛門入道
    廣澤弾正左衛門尉
    大瀬次郎左衛門尉
    葛山六郎兵衛尉
    岡村五郎左衛門尉

四番
    伊具左衛門入道
    小笠原孫次郎
    佐介殿
    長崎三郎左衛門入道
    土肥三郎左衛門尉
    下山刑部左衛門入道
    塩飽三郎兵衛尉
    佐野左衛門入道

五番
    武田伊豆守
    万年馬入道
    武田七郎五郎
    澁谷十郎入道
    粟飯原後家
    亘理四郎左衛門尉
    但馬新左衛門尉
    斎藤圖書左衛門尉

六番
    工藤三郎右衛門尉
    桑原新左衛門尉
    讃岐局
    澁谷六郎左衛門尉
    荻野源内左衛門入道
    淺羽三郎左衛門尉
    蛭川四郎左衛門尉
    千田木工左衛門尉

七番
    安東左衛門尉
    工藤右近将監
    佐介越前守
    南條中務丞
    小笠原四郎
    曽我次郎左衛門尉
    工藤左近将監
    千竈六郎

八番
    諏方左衛門尉
    塩飽右近入道
    主税頭
    諏方三郎左衛門尉
    安保五郎兵衛入道
    五大院太郎右衛門尉
    本間五郎左衛門尉
    岡田十郎

九番
    尾藤左衛門尉
    長崎四郎左衛門尉
    神四郎入道
    澁川次郎左衛門入道
    安東平内右衛門入道
    工藤治部右衛門尉
    内嶋四郎左衛門尉
    諸岡民部五郎

十番
    長崎左衛門尉
    尾藤六郎左衛門尉
    長崎後家
    権醫博士
    狩野介
    尾張権守
    矢野民部大夫
    粟飯原右衛門四郎

十一番
    南條左衛門尉
    岡村太郎右衛門尉
    尾藤五郎左衛門尉
    武藤後家
    中三中務入道
    佐藤宮内左衛門尉
    万年新馬允
    矢田四郎左衛門尉

十二番
    工藤右衛門入道
    五大院左衛門入道
    出雲守
    妙鑒房
    武田弥五郎
    諏方兵衛尉
    内嶋後家
    水原圖書允

右、守結番次第、無懈怠、可致沙汰之状如件、
徳治二年五月  日



付記
合田四郎左衛門尉合田五郎左衛門尉の記載がある。
合掌。

追記
「鎌倉市史史料編第二」所収「圓覺寺文書」より、引用させていただいた。
関係諸氏に、記して、お礼を申し上げる。
合掌。


参考
以下、同一氏ごとに纏めてみた(但し、氏が確認できない場合は、其の侭に付した)。

    長崎左衛門尉 1
    長崎木工左衛門尉 1
    長崎宮内左衛門尉 3
    長崎三郎左衛門入道 4
    長崎四郎左衛門尉 9
    長崎左衛門尉 10
    長崎後家 10

    周防前司 1

    嶋田民部大夫入道 1

    安東四郎右衛門入道 1
    安東左衛門尉 7
    安東平内右衛門入道 9

    足立源左衛門入道 1

    諏方六郎左衛門尉 1
    諏方左衛門尉 8
    諏方三郎左衛門尉 8
    諏方兵衛尉 12

    合田四郎左衛門尉 1
    合田五郎左衛門尉 2

    工藤次郎右衛門尉 2
    工藤三郎右衛門尉 6
    工藤右近将監 7
    工藤左近将監 7
    工藤治部右衛門尉 9
    工藤右衛門入道 12

    粟飯原左衛門尉 2
    粟飯原後家 5
    粟飯原右衛門四郎 10

    葛山左衛門尉 2
    葛山六郎兵衛尉 3

    大瀬三郎左衛門尉 2
    大瀬次郎左衛門尉 3

    本間太郎左衛門尉 2
    本間五郎左衛門尉 8

    吉岡四郎左衛門尉 2

    高柳三郎兵衛尉 2

    大蔵五郎入道 3

    越中局 3

    大森右衛門入道 3

    廣澤弾正左衛門尉 3

    岡村五郎左衛門尉 3

    伊具左衛門入道 4

    小笠原孫次郎 4
    小笠原四郎 7

    佐介殿 4

    土肥三郎左衛門尉 4

    下山刑部左衛門入道 4

    塩飽三郎兵衛尉 4
    塩飽右近入道 8

    佐野左衛門入道 4

    武田伊豆守 5
    武田七郎五郎 5
    武田弥五郎 12

    万年馬入道 5
    万年新馬允 11

    澁谷十郎入道 5
    澁谷六郎左衛門尉 6

    亘理四郎左衛門尉 5

    但馬新左衛門尉 5

    斎藤圖書左衛門尉 5

    桑原新左衛門尉 6

    讃岐局 6

    荻野源内左衛門入道 6

    淺羽三郎左衛門尉 6

    蛭川四郎左衛門尉 6

    千田木工左衛門尉 6

    佐介越前守 7

    南條中務丞 7
    南條左衛門尉 11

    曽我次郎左衛門尉 7

    千竈六郎 7

    主税頭 8

    安保五郎兵衛入道 8

    五大院太郎右衛門尉 8

    岡田十郎 8

    尾藤左衛門尉 9
    尾藤六郎左衛門尉 10
    尾藤五郎左衛門尉 11

    神四郎入道 9

    澁川次郎左衛門入道 9

    内嶋四郎左衛門尉 9

    諸岡民部五郎 9

    権醫博士 10

    狩野介 10

    尾張権守 10

    矢野民部大夫 10


    岡村太郎右衛門尉 11

    武藤後家 11

    中三中務入道 11

    佐藤宮内左衛門尉 11

    矢田四郎左衛門尉 11

    五大院左衛門入道 12

    出雲守 12

    妙鑒房 12

    内嶋後家 12

    水原圖書允 12



参考


新編相模国風土記稿 卷之七十九 村里部 鎌倉郡 卷之十一




蒙古襲来絵詞(1-04)

同五日、関東の御使かうた(合田)の五郎とをとし(遠俊)、あむとうの左衛門二郎しけつな、払暁にはせきたりしに、季長ゆきむかて、「海上をへたて候あひた、ふね候はて、御大事にもれ候ぬとおほえ候」と申に、かうた(合田)の五郎、「兵船候はては、ちからなき御事にこそ候へ」と申ところに、肥前国の御家人其名わする、たかしま(鷹島)のにしの浦よりわれのこり候ふねに、賊徒あまたこみのり候を、はらひのけて、しかるへき物ともとおほえ候のせて、はやにけかへり候」と申に、季長、「おほせのことくはらひのけ候は、歩兵とおほえ候。ふねにのせ候は、よきものにてそ候らん。これを一人もうちとゝめたくこそ候へ」と申に、かうた(合田)の五郎、「異賊はやにけかへり候と申候。せいをさしむけたく候と小弐殿へ申へし」とて、使者をつかはすに、肥後国たくまの別当次郎時ひて、大野小次郎くにたか、そのほか兵船まはしたりし人々をひかゝるといへとも、季長か兵船いまたまはらさりし程に、せんはうをうしなひしところに、連銭の旗たてたる大船をしきたりしを、かうた(合田)の五郎、「城次郎殿の旗とおほゆる。ゆきむかてみよ」とて、使者をつかはす。このふねにのりて、おきのふねにのらむと、まへをたて、つかひのふねにのらむとせしに、のせさりしをもて、「守護の御ての物に候。御兵船まはり候はゝ、のりて合戦すへしとおほせをかふりて候」と申に、のせられておきのふねにのりうつるに、こたへの兵部房、「めしの御ふねに候。御ての人よりほかはのすましく候。おろしまいらせよ」と申て、しもへをもてせきおろさむとするを、「君の御大事にたち候はむために、まかりのり候を、むなしくうみにせきいれられ候はむ事、そのせむなく候。はし船を給候て、おり候はむ」と申に、「おるへきよしおほせらるゝうゑは、狼藉なせそ」と申に、物とものきしひまに、かのふねにのる。


あくる六日払暁に、かうた(合田)の五郎のかり屋かたにゆきむかて、合戦の事、条々申に、「おほせいせむにうけ給て候。せむせむの御合戦も相違候はしとおほゑ候。自船候はて一度ならすかり事のみおほせ候て、ふねふねにめされ候て、御大事にあはせ給候御事は、大まうあく(大猛悪)の人に候と、上のけさむに入まいらせ候へく候。式部房証人の事はうけ給候ぬ。御尋候はゝ、申辺く候」とありしによて、かさねてせう人にこれをたつ。



付記
竹崎季長の著した「蒙古襲来絵詞」から、合田五郎の記載がある詞の十と十二を掲載する。
合掌。

東鑑(吾妻鏡) 第五十二  文永二年十月小(1-02)

寛文元年(1661年)整版本 新刊吾妻鏡

寛文元年(1661年)整版本 新刊吾妻鏡

寛文元年(1661年)整版本 新刊吾妻鏡



僧正、相具百種懸物參上凡日來連々應召、云云
廿五日 庚寅 朝雨午尅属晴今日最明寺禪室
第三年御佛事、於山内被修之導師、道隆禪師 正日十一月廿二日也
廿六日 辛卯天晴 貢馬御覽左京兆、相州、以下
著水干葛袴 列座庭上一御馬、左京兆進、騰馬也 合田四
騎之而引手等、無左右放之、馬騰及度々而、合田
雖落、重乗之、打廻御前之間、高騰廿余度、近年無如
此龍蹄 云云
  十一月大
十三日 丁未天晴△京都御使、兵部大輔範忠朝
臣歸洛去比下向是被賀申御産無爲事又勅撰事



付記
合田四郎の記載がある。
合掌。


追記
掲載画像の作成にあたっては、上坂氏顕彰会所蔵、「寛文元年(1661年)整版本 新刊吾妻鏡」を使用した。
合掌。

ブログ開設にあたって

合田昌文氏著「中世合田氏ノ跡(平成12年3月25日発行)」

ある日、書籍小包が届いた。差出人は合田昌文氏であった。存じ上げない方である。封を切ると、其処には、「中世合田氏ノ跡」という書冊が入っていた。合田氏に関しては、元寇(文永の役、弘安の役)で活躍した合田五郎等の武将に関する知識は持っていた。然し、手元に原文書が伝わらない、遥か遠い人であった。当時の私は、母方の武士団に関する史料を纏める作業に従事していた。此方は、直系で、古くからの文書があった。そんなことで、折角の氏からのご好意に応えることが適わなかった。漸くにして、眼前の作業が終わり、亦、確かな文書を自身の手に所持しない中世の合田氏へも、今ならば近づけるのではないかと思うようになった。優れた先学である合田昌文氏の導きによって、私も、中世合田氏の事跡を探る旅に出ることにした。 
合掌。