同五日、関東の御使
かうた(合田)の五郎とをとし(遠俊)、あむとうの左衛門二郎しけつな、払暁にはせきたりしに、季長ゆきむかて、「海上をへたて候あひた、ふね候はて、御大事にもれ候ぬとおほえ候」と申に、
かうた(合田)の五郎、「兵船候はては、ちからなき御事にこそ候へ」と申ところに、肥前国の御家人其名わする、たかしま(鷹島)のにしの浦よりわれのこり候ふねに、賊徒あまたこみのり候を、はらひのけて、しかるへき物ともとおほえ候のせて、はやにけかへり候」と申に、季長、「おほせのことくはらひのけ候は、歩兵とおほえ候。ふねにのせ候は、よきものにてそ候らん。これを一人もうちとゝめたくこそ候へ」と申に、
かうた(合田)の五郎、「異賊はやにけかへり候と申候。せいをさしむけたく候と小弐殿へ申へし」とて、使者をつかはすに、肥後国たくまの別当次郎時ひて、大野小次郎くにたか、そのほか兵船まはしたりし人々をひかゝるといへとも、季長か兵船いまたまはらさりし程に、せんはうをうしなひしところに、連銭の旗たてたる大船をしきたりしを、
かうた(合田)の五郎、「城次郎殿の旗とおほゆる。ゆきむかてみよ」とて、使者をつかはす。このふねにのりて、おきのふねにのらむと、まへをたて、つかひのふねにのらむとせしに、のせさりしをもて、「守護の御ての物に候。御兵船まはり候はゝ、のりて合戦すへしとおほせをかふりて候」と申に、のせられておきのふねにのりうつるに、こたへの兵部房、「めしの御ふねに候。御ての人よりほかはのすましく候。おろしまいらせよ」と申て、しもへをもてせきおろさむとするを、「君の御大事にたち候はむために、まかりのり候を、むなしくうみにせきいれられ候はむ事、そのせむなく候。はし船を給候て、おり候はむ」と申に、「おるへきよしおほせらるゝうゑは、狼藉なせそ」と申に、物とものきしひまに、かのふねにのる。
あくる六日払暁に、
かうた(合田)の五郎のかり屋かたにゆきむかて、合戦の事、条々申に、「おほせいせむにうけ給て候。せむせむの御合戦も相違候はしとおほゑ候。自船候はて一度ならすかり事のみおほせ候て、ふねふねにめされ候て、御大事にあはせ給候御事は、大まうあく(大猛悪)の人に候と、上のけさむに入まいらせ候へく候。式部房証人の事はうけ給候ぬ。御尋候はゝ、申辺く候」とありしによて、かさねてせう人にこれをたつ。
付記
竹崎季長の著した「蒙古襲来絵詞」から、
合田五郎の記載がある詞の十と十二を掲載する。
合掌。