(貞時花押)
圓覺寺毎月四日大斎結番事
一番
長崎左衛門尉
長崎木工左衛門尉
周防前司
嶋田民部大夫入道
安東四郎右衛門入道
足立源左衛門入道
諏方六郎左衛門尉
合田四郎左衛門尉
二番
工藤次郎右衛門尉
粟飯原左衛門尉
葛山左衛門尉
大瀬三郎左衛門尉
本間太郎左衛門尉
合田五郎左衛門尉
吉岡四郎左衛門尉
高柳三郎兵衛尉
三番
大蔵五郎入道
長崎宮内左衛門尉
越中局
大森右衛門入道
廣澤弾正左衛門尉
大瀬次郎左衛門尉
葛山六郎兵衛尉
岡村五郎左衛門尉
四番
伊具左衛門入道
小笠原孫次郎
佐介殿
長崎三郎左衛門入道
土肥三郎左衛門尉
下山刑部左衛門入道
塩飽三郎兵衛尉
佐野左衛門入道
五番
武田伊豆守
万年馬入道
武田七郎五郎
澁谷十郎入道
粟飯原後家
亘理四郎左衛門尉
但馬新左衛門尉
斎藤圖書左衛門尉
六番
工藤三郎右衛門尉
桑原新左衛門尉
讃岐局
澁谷六郎左衛門尉
荻野源内左衛門入道
淺羽三郎左衛門尉
蛭川四郎左衛門尉
千田木工左衛門尉
七番
安東左衛門尉
工藤右近将監
佐介越前守
南條中務丞
小笠原四郎
曽我次郎左衛門尉
工藤左近将監
千竈六郎
八番
諏方左衛門尉
塩飽右近入道
主税頭
諏方三郎左衛門尉
安保五郎兵衛入道
五大院太郎右衛門尉
本間五郎左衛門尉
岡田十郎
九番
尾藤左衛門尉
長崎四郎左衛門尉
神四郎入道
澁川次郎左衛門入道
安東平内右衛門入道
工藤治部右衛門尉
内嶋四郎左衛門尉
諸岡民部五郎
十番
長崎左衛門尉
尾藤六郎左衛門尉
長崎後家
権醫博士
狩野介
尾張権守
矢野民部大夫
粟飯原右衛門四郎
十一番
南條左衛門尉
岡村太郎右衛門尉
尾藤五郎左衛門尉
武藤後家
中三中務入道
佐藤宮内左衛門尉
万年新馬允
矢田四郎左衛門尉
十二番
工藤右衛門入道
五大院左衛門入道
出雲守
妙鑒房
武田弥五郎
諏方兵衛尉
内嶋後家
水原圖書允
右、守結番次第、無懈怠、可致沙汰之状如件、
徳治二年五月 日
付記
合田四郎左衛門尉、合田五郎左衛門尉の記載がある。
合掌。
追記
「鎌倉市史史料編第二」所収「圓覺寺文書」より、引用させていただいた。
関係諸氏に、記して、お礼を申し上げる。
合掌。
参考
以下、同一氏ごとに纏めてみた(但し、氏が確認できない場合は、其の侭に付した)。
長崎左衛門尉 1
長崎木工左衛門尉 1
長崎宮内左衛門尉 3
長崎三郎左衛門入道 4
長崎四郎左衛門尉 9
長崎左衛門尉 10
長崎後家 10
周防前司 1
嶋田民部大夫入道 1
安東四郎右衛門入道 1
安東左衛門尉 7
安東平内右衛門入道 9
足立源左衛門入道 1
諏方六郎左衛門尉 1
諏方左衛門尉 8
諏方三郎左衛門尉 8
諏方兵衛尉 12
合田四郎左衛門尉 1
合田五郎左衛門尉 2
工藤次郎右衛門尉 2
工藤三郎右衛門尉 6
工藤右近将監 7
工藤左近将監 7
工藤治部右衛門尉 9
工藤右衛門入道 12
粟飯原左衛門尉 2
粟飯原後家 5
粟飯原右衛門四郎 10
葛山左衛門尉 2
葛山六郎兵衛尉 3
大瀬三郎左衛門尉 2
大瀬次郎左衛門尉 3
本間太郎左衛門尉 2
本間五郎左衛門尉 8
吉岡四郎左衛門尉 2
高柳三郎兵衛尉 2
大蔵五郎入道 3
越中局 3
大森右衛門入道 3
廣澤弾正左衛門尉 3
岡村五郎左衛門尉 3
伊具左衛門入道 4
小笠原孫次郎 4
小笠原四郎 7
佐介殿 4
土肥三郎左衛門尉 4
下山刑部左衛門入道 4
塩飽三郎兵衛尉 4
塩飽右近入道 8
佐野左衛門入道 4
武田伊豆守 5
武田七郎五郎 5
武田弥五郎 12
万年馬入道 5
万年新馬允 11
澁谷十郎入道 5
澁谷六郎左衛門尉 6
亘理四郎左衛門尉 5
但馬新左衛門尉 5
斎藤圖書左衛門尉 5
桑原新左衛門尉 6
讃岐局 6
荻野源内左衛門入道 6
淺羽三郎左衛門尉 6
蛭川四郎左衛門尉 6
千田木工左衛門尉 6
佐介越前守 7
南條中務丞 7
南條左衛門尉 11
曽我次郎左衛門尉 7
千竈六郎 7
主税頭 8
安保五郎兵衛入道 8
五大院太郎右衛門尉 8
岡田十郎 8
尾藤左衛門尉 9
尾藤六郎左衛門尉 10
尾藤五郎左衛門尉 11
神四郎入道 9
澁川次郎左衛門入道 9
内嶋四郎左衛門尉 9
諸岡民部五郎 9
権醫博士 10
狩野介 10
尾張権守 10
矢野民部大夫 10
岡村太郎右衛門尉 11
武藤後家 11
中三中務入道 11
佐藤宮内左衛門尉 11
矢田四郎左衛門尉 11
五大院左衛門入道 12
出雲守 12
妙鑒房 12
内嶋後家 12
水原圖書允 12
参考
新編相模国風土記稿 卷之七十九 村里部 鎌倉郡 卷之十一
2011年11月29日火曜日
蒙古襲来絵詞(1-04)
同五日、関東の御使かうた(合田)の五郎とをとし(遠俊)、あむとうの左衛門二郎しけつな、払暁にはせきたりしに、季長ゆきむかて、「海上をへたて候あひた、ふね候はて、御大事にもれ候ぬとおほえ候」と申に、かうた(合田)の五郎、「兵船候はては、ちからなき御事にこそ候へ」と申ところに、肥前国の御家人其名わする、たかしま(鷹島)のにしの浦よりわれのこり候ふねに、賊徒あまたこみのり候を、はらひのけて、しかるへき物ともとおほえ候のせて、はやにけかへり候」と申に、季長、「おほせのことくはらひのけ候は、歩兵とおほえ候。ふねにのせ候は、よきものにてそ候らん。これを一人もうちとゝめたくこそ候へ」と申に、かうた(合田)の五郎、「異賊はやにけかへり候と申候。せいをさしむけたく候と小弐殿へ申へし」とて、使者をつかはすに、肥後国たくまの別当次郎時ひて、大野小次郎くにたか、そのほか兵船まはしたりし人々をひかゝるといへとも、季長か兵船いまたまはらさりし程に、せんはうをうしなひしところに、連銭の旗たてたる大船をしきたりしを、かうた(合田)の五郎、「城次郎殿の旗とおほゆる。ゆきむかてみよ」とて、使者をつかはす。このふねにのりて、おきのふねにのらむと、まへをたて、つかひのふねにのらむとせしに、のせさりしをもて、「守護の御ての物に候。御兵船まはり候はゝ、のりて合戦すへしとおほせをかふりて候」と申に、のせられておきのふねにのりうつるに、こたへの兵部房、「めしの御ふねに候。御ての人よりほかはのすましく候。おろしまいらせよ」と申て、しもへをもてせきおろさむとするを、「君の御大事にたち候はむために、まかりのり候を、むなしくうみにせきいれられ候はむ事、そのせむなく候。はし船を給候て、おり候はむ」と申に、「おるへきよしおほせらるゝうゑは、狼藉なせそ」と申に、物とものきしひまに、かのふねにのる。
あくる六日払暁に、かうた(合田)の五郎のかり屋かたにゆきむかて、合戦の事、条々申に、「おほせいせむにうけ給て候。せむせむの御合戦も相違候はしとおほゑ候。自船候はて一度ならすかり事のみおほせ候て、ふねふねにめされ候て、御大事にあはせ給候御事は、大まうあく(大猛悪)の人に候と、上のけさむに入まいらせ候へく候。式部房証人の事はうけ給候ぬ。御尋候はゝ、申辺く候」とありしによて、かさねてせう人にこれをたつ。
付記
竹崎季長の著した「蒙古襲来絵詞」から、合田五郎の記載がある詞の十と十二を掲載する。
合掌。
あくる六日払暁に、かうた(合田)の五郎のかり屋かたにゆきむかて、合戦の事、条々申に、「おほせいせむにうけ給て候。せむせむの御合戦も相違候はしとおほゑ候。自船候はて一度ならすかり事のみおほせ候て、ふねふねにめされ候て、御大事にあはせ給候御事は、大まうあく(大猛悪)の人に候と、上のけさむに入まいらせ候へく候。式部房証人の事はうけ給候ぬ。御尋候はゝ、申辺く候」とありしによて、かさねてせう人にこれをたつ。
付記
竹崎季長の著した「蒙古襲来絵詞」から、合田五郎の記載がある詞の十と十二を掲載する。
合掌。
東鑑(吾妻鏡) 第五十二 文永二年十月小(1-02)
寛文元年(1661年)整版本 新刊吾妻鏡
寛文元年(1661年)整版本 新刊吾妻鏡
寛文元年(1661年)整版本 新刊吾妻鏡
僧正、相具百種懸物參上凡日來連々應召、云云
廿五日 庚寅 朝雨午尅属晴今日最明寺禪室
第三年御佛事、於山内被修之導師、道隆禪師 正日十一月廿二日也
廿六日 辛卯天晴 貢馬御覽左京兆、相州、以下
著水干葛袴 列座庭上一御馬、左京兆進、騰馬也 合田四
郎騎之而引手等、無左右放之、馬騰及度々而、合田
雖落、重乗之、打廻御前之間、高騰廿余度、近年無如
此龍蹄 云云
十一月大
十三日 丁未天晴△京都御使、兵部大輔範忠朝
臣歸洛去比下向是被賀申御産無爲事又勅撰事
付記
合田四郎の記載がある。
合掌。
追記
掲載画像の作成にあたっては、上坂氏顕彰会所蔵、「寛文元年(1661年)整版本 新刊吾妻鏡」を使用した。
合掌。
ブログ開設にあたって
合田昌文氏著「中世合田氏ノ跡(平成12年3月25日発行)」
ある日、書籍小包が届いた。差出人は合田昌文氏であった。存じ上げない方である。封を切ると、其処には、「中世合田氏ノ跡」という書冊が入っていた。合田氏に関しては、元寇(文永の役、弘安の役)で活躍した合田五郎等の武将に関する知識は持っていた。然し、手元に原文書が伝わらない、遥か遠い人であった。当時の私は、母方の武士団に関する史料を纏める作業に従事していた。此方は、直系で、古くからの文書があった。そんなことで、折角の氏からのご好意に応えることが適わなかった。漸くにして、眼前の作業が終わり、亦、確かな文書を自身の手に所持しない中世の合田氏へも、今ならば近づけるのではないかと思うようになった。優れた先学である合田昌文氏の導きによって、私も、中世合田氏の事跡を探る旅に出ることにした。
合掌。
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